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右上・呼子港
右下・加唐島[共に中園成生撮影]
左・鼻を切る羽指(ハザシ)[「肥前国産物図考」佐賀県立博物館蔵]

 

鮮半島から、まずは対馬に来て、壱岐により、壱岐から南下すれば加唐島に来ます。壱岐と呼子(よぶこ)の間に加唐島があるわけですから加唐島は南下のルートにあたっていたのではなかったかと考えています。
それからもう一つ、以前から加唐島に興味を持っていたのが家船との関係です。大村藩の藩主大村鈍伊(すみこれ)が有馬家に攻められた際、加唐島に逃れた。大村落の家船に守られしばらく隠遁生活をしていたが、家船(えぶね)がいつも身辺にいてご飯を差し上げたと、家船の由来記に書いてあるのです。それが仮に伝承であったとしても、加唐島と家船の関係は何かあるのではないか思ったわけです。が、西彼杵(にしそのぎ)半島の蠣ノ浦の近くに呼子の瀬戸があるのです。大瀬戸は家船の根拠地ですから、大瀬戸とか、崎戸とかには家船がいた。だから、そこあたりは呼子から南下したのではないかというのが宮本常一の推測です。もう一つは、広島県三原市の能地(のうじ)、二窓(ふたまど)辺りに行って聞くと、能地の家船が呼子にまで行っているのです。瀬戸内の能地の船が坪子に行ったというのがまた不思議なんです。だから呼子辺りは、非常に重要なところではないか。
大村藩の『郷村記』を読むと、外国船が長崎の辺りに来た時に、大村落も軍船を出すんだけれども、その時、家船も軍船として使う事が書いてある。家船で近付いて行って潜り、敵の船の底に穴を空けるというのがあるのです。ま

 

 

 

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